メンタルケア&サポートやさしい光《目の前の「人」「事」「物」すべてに真実が在る》☆心の闇に光を当てるカウンセリング☆田中俊一

はじめまして、私は、現在、兵庫県宝塚市にあるマンションで、
管理員の仕事をしております。田中俊一と申します。

私のブログは、30数年前に大学を卒業して
ごく普通の社会人になりました。
それまで大した苦労もなく、家族に守られた環境で育ったため、
社会の荒波?に巻き込まれ、もまれることになりました。

最初、大手食品商社の営業を10年間勤めた後、
"天職"を求め退職し、その後25年間、飲食、メンテンス、
食品関連の業種のアルバイト、正社員を含め10箇所の職場を
資格やスキルも持たないまま、転職してきました。

記事一覧(193)

「既知の固定化」を外した時の気づき実例 PART1

前回のブログを書きながら、どこかでつながっている感じで、ある過去のシーンを思い出しました。それは、私のメンターとの個人セッション中の出来事でした。予め言っておきますが、「洗脳」とか「マインドコントロール」とかの類の個人セッションではありません。ごく普通のカウンセリング形式のセッションです。セッションのテーマは、私が事前に決めてスタートするのですが、どんなテーマであろうと、必ず心の内側の深いところまで、掘り下がっていきます。つまり、「霊的真理の話」へとなっていきます。難解な話では思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、実はそうでもありません。心や意識と言った、見えない、つかみどころのない抽象的な話の連続となると、やはり、私も未熟な人間ですので、思い違いや理解が伴わないケースが出てきます。そんな時、メンターから助け舟のように話の理解度をアップするため、タイミングよく出てくる話が、『たとえ話』なのです。しかし、正直言って、この『たとえ話』が私にとってはクセものなのです。『たとえ話』そのものは大変わかりやすいのですが、同じ内容を何度も何度もメンターから聞いている話なのです。当然のことながら、私の反応は、「また、その話ですか、知っていますよ。」と心の中でなります。一度だけですが、メンターが数分後に同じことを話し出した時に思わず、それを声に出して言ってしまったこともありました。そして、思った瞬間、言った瞬間、「しまった!」と我に返って気づきました。

意識(エネルギー)が隠れていた『愛』を引き出してくれた!

前回の記事の後に、とても興味深いことに気づいたので、シェア致します。それは、現在、私のメルマガを登録された方に、特典として、オリジナル資料・2種類をプレゼントしているのですが、只今、グレードアップ版を作成中です。その準備段階で、「えっ、まさかこんなことが!」と驚き、新たに気づいたことがありました。それは、私の過去の記憶に関することがキッカケでした。私は以前、ネガティブな思考をポジティブな思考へ転換するために、何度も過去の記憶を掘り出すことをやってきました。しかし、その対象となったのは、このブログの初期の頃に書きましたように20代以降の記憶が残っている時代とも重なっていました。つまり、それ以前の幼少・少年期の年代については、記憶が定かでない、あいまいな点が多くあり、また掘り返す必要もなかったため、特に触れることはありませんでした。ところが、オリジナル資料のグレードアップ版を作成するにあたり、どうしても20代以前の記憶と向き合う必要性が出てきたのです。とりあえずPCへ打ち込み始めたものの、予想通り記憶の乏しさから、すぐに壁にブチ当たりました。つまり、打っている手が止まってしまったのです。正直言って困りました。全然前に進めない状況だったのですから・・・・・・せっかく意気込んで作り始めたのところなのに・・・・・・もうやめようかとあきらめかけました。

言葉にはその意味以上の「エネルギー」「響き」が宿る!

読者の皆様、ご家族や伴侶、パートナーなど身近な人に対して、何か行為をしてもらった時、「ありがとう」を心を込め愛と感謝の気持ちで真剣に自信を持って言えてますか?私の場合、生来の性質からなのでしょうか?家族に対してはどうしても感謝の言葉を伝えるのが"ド下手"だったのです。「ありがとう」そのひと言を口に出すのがどうしても苦手というか、気恥ずかしいのとは異なる言いづらい感覚が長年ありました。私なりに自己分析すると、どうも自己中心的な性格、思考が多分に影響していたように思います。ところが、妻の方は育った環境の違いからか、元来の性格からか、わかりませんが、結婚当初から、その「ありがとう」の言葉が、自然に出てくるのです。私は、ずっーと長い間、それが気にはなっていたのですが、なかなか修正できませんでした。さらに、私の方が物事に対して、関心を示す視点が妻と異なることもあり、そのため共通して認識できる部分が少なく、"会話が続かない"傾向となっていました。だから余計に夫婦の会話もギクシャク感が出てきます。ところが、夫婦生活も今年で27年目を迎え、そんな状況に"変化"がありました。その"変化"の前に、実はこんな背景がありました。私が個人的にお世話になっている方からこんなことを聞いたことがありました。『日本には太古の昔から「言霊」と言われるように、言葉には人の意識を向ける力がある。言葉をうまく使うことによって、人間関係に「平安」と「調和」をもたらすことができる』"この話の本質"がその"変化"へのキッカケとなりました。"この話の本質"とは、『言葉の意味にこだわらず、相手に心や気持ちをしっかりと伝えるのであれば、自分に合った使いやすい言葉で表現すれぱいい』、ということです。そのように解釈ができ認識した時に、特に「ありがとう」を使わなくても"他の言葉に置き換えて、気持ちをキチンと伝えることができる"、私にはそう思えたのです。そこまでわかっていても、しかし、"その言葉"に出会うまでにある程度の期間が必要でした。

悩んでいる娘の話から出てきた「等身大」というキーワードの真実

私達夫婦には娘が1人います。私達、親から離れ、ひとり暮らしをしています。学生時代から続いていますので、もう7年近くなります。社会人になって2年になりますが、大らかに過ごせた学生時代とは違い、仕事に追われ、職場の人間関係にも気を遣い、これまで個人的に心や感情をコントロールできたのが、どうやらそれも限界に達したようでした。娘本人も気づいたのですが、我慢していたようで、親子で久しぶりに食事を共にした時、娘が堰を切ったように急に泣き出しました。娘のその様子を見て私は状況を察知して、カウンセリングのモードへ意識的に切り換えてました。泣きじゃくりながら切実な状況を話している娘に対して、しばらく黙って聴いてました。私はその話を聴いている内、娘の育った環境とともに周囲の人達との関わり方について、次のキーワードが頭の中に浮かびました。『等身大』それでした。娘は自分の周囲の人達との関係を保つため、"常に優秀で仕事のできる人であり続けよう"、"能力以上のものを常に出そうと 無理をして背伸び"していた"と感じられたのです。そんな娘の現実と想いのギャップを修正するヒント、キッカケとして、そのキーワードが私の中からスーッと出てきたように思います。その時の娘の精神状態を考慮したため、そのキーワードを娘に伝えるかどうか、一瞬迷いかけましたが、ここは娘のためだと思い、言葉に出して伝えてみました。私が娘に対して、「職場やその他の人間関係が 無理な背伸び"をしているようで、 身の丈に合っていない気がする。 それに応じた『等身大』ということを 意識してみたらどうか」と尋ねました。しかし、その時、"娘はピンと来ていない"、そのような返事と表情でした。そんな反応だったなら、親の立場で、「もっと突っ込んだらいいのに」と思われる方もいるかと思います。また私達は往々にして、心の問題について何かの行動を起こした時、その成果や結果を期待する傾向にどうしても成りがちです。しかし、その成果とか結果とかは、すぐに私達の思い通り都合よく出てくるとは限りません。まして、それがいつ誰を通して、どのような形で出てくるかも、検討がつきません。たとえそれが自分の娘だろうと同じことが言えると思います。そのようなことが真実としてわかっていたので、私は娘の心の問題に対して成果や結果を求めず、『ただ待つ』、娘の心の成長を本心から望んで見守るのであれば、それだけに徹する他、選択肢はなかったのです。

マザコンだった私が亡き母へ贈る最後の言葉

「別れてくれ!」と言ったら、妻から返ってきた究極の言葉

今回のタイトル、『「別れてくれ!」と言ったら、妻から返された究極の言葉』「大げさで恥ずかしくなあ」と思いつつ、よく考えてみたら、"ある側面"では的を得ていると思っています。"ある側面"とは、今回初めてカテゴリーに追加した、「神の声」です。スピリチュアル、精神世界といった怪しいとか、毛嫌いされている方がいましたら、「神の声」としたのは、私なりの根拠、確信に基づいた表現です。もし私の話におつき合い頂けるのでしたら、ちょっと立ち止まる感じでいいですから、サラッとお読み下さい。昔からスピリチュアル、精神世界については、世間では偏見や批判されるような風当たりを受けることがよくあります。(実は私の家族がそれに該当します)決して反論するつもりはないのですが、人間の主観からなる唯物主義や物質優先の社会通念が現実社会の中で、いつも中心的な存在、位置づけで、そこにすべてが揃っていると思っている、そう信じている、という限定された世界を見ているに過ぎないように思えるのです。人間が作った社会的価値観、固定概念の枠組みに縛られているという見方、表現もできるかと思います。しかし、私達人間には、外側の世界を感じる五官(五感)を生まれながらにして持っています。その五官(五感)、個人差はあれ、誰でも、感性を養成し研ぎすまされるようになると、必ず、"感じられるモノ、領域"があることに気づきます。それを個人的にどのように扱うかにより、その人の感性の成長の度合いによって、さらに拡張の大きさや質的な違いということが生じ出します。それは決して他人には理解できない、"捉えようのないモノ、領域"でもあります。しかし、本人にとっては、唯一の"本心から信じられるモノ、領域"なのです。"自分の直感に従って行動する"という言い方をしますが、それは、このことを指しているように個人的には思います。