メンタルケア&サポートやさしい光《愛の光灯す》☆真理カウンセラー☆田中俊一

はじめまして、私は、現在、兵庫県宝塚市にあるマンションで、
管理員の仕事をしております。

私のブログは、30数年前に大学を卒業して
社会人として就職するところから始まっています。
それまで大した苦労もなく、家族に守られた環境で育ったため、
相応の社会の荒波?に巻き込まれ、揉まれることになりました。

最初、大手食品商社の営業を10年間勤めた後、
"天職"を求め退職し、その後25年間、飲食、メンテンス、
食品関連の業種のアルバイト、正社員を含め10箇所の職場を
資格やスキルも持たないまま、転職してきました

記事一覧(165)

偶然というものはなく、必然として向き合う自覚

前回の記事を書きながら、Bさんにまつわる過去の出来事を思い出しました。分譲マンションでは通常、年1回、その年の決算承認と次の年の予算を決め、他の大きな議案を決裁するため、総会という会議の場を設けています。そこでは、マンションの居住者の方々が集まり、私どもマンション管理会社の関係者も同席します。会議の場は、マンションの居住者の方々が中心で、役回りの理事と議案を審議する方々に分かれ、質疑応答するという形式です。あれは4年前、その総会の場での出来事でした。Bさんが私どもマンション管理会社に対して、その会議の内容になかった資料の提出を求められました。当時、私の上司だったG氏と見解の食い違いが生じ、収拾がつかず、最後はG氏の方がキレてしまい、公の場にも関わらず"怒りが頂点に達し爆発した"、という前代未聞の出来事がありました。総会は、そんなことがあっても終了し、それから数日後、Bさんが私の仕事場に来られ、「あの担当者(G氏)を替えてほしい」と話されました。おそらく、Bさんも、先日の出来事に対して、怒りが収まらなかったのでしょう。その気持ちを察することはできたのですが・・・その返す言葉は、「わかりました。G氏へは、私がそのことを伝えます。 私もその場で同席していたのですから、 私も替わってもよろしいですか?」ということを言っていました。Bさんは少し困惑の表情になり、「あんたは替わらなくていい」そう返事をされました。ちょうどその頃は、私自身も仕事に対して、行き詰まりを感じており、早くこの仕事から離れたい、そんな想いが頭の中を巡っていた時期でした。加えて、マンションの理事という役員は、輪番制、つまり、順番が既に決まっていて、Bさんが4年後に回ってくるのが事前にわかっていました。そんなことから、"私も替わってもよろしいですか?"という今から思えば、突拍子もない発言となったように思います。

樹木希林さんが遺された言葉の本質に迫る

先だってお亡くなりになった、女優の樹木希林さんが遺された言葉について、記事を書こうと思いながら、なかなか書けずにおりました。ところが、毎月頂いている知人の方のお便りに、彼女の語録を掲載されていたので、素晴らしい内容に感動し、それに刺激されたようで、私なりに今回まとめてみました。私は、樹木希林さんについて長年、"独特のキャラクターを持った女優さん"、そのくらいのイメージしかありませんでした。夫である、ロック・ミュージシャンの内田裕也氏との関係についても、"不思議な夫婦関係"というぐらいにしか思っていませんでした。また最近では、話題の言葉となった、"全身ガン"が印象として残っていました。ところが、お亡くなりマスコミを中心に、これまでの話題となった情報が集中的に出てきたこともあり、私もなんとなく遺された語録を読みながら、ついつい引き込まれてしまいました。これは、主観的な憶測かもしれませんが、彼女は若い頃から仏典に親しんできたという経緯から、おそらく、その生き方のベースには、"お釈迦様への畏敬の念"とともに、"その教えを実生活や仕事に生かし続けていた"それが"真実の姿だった"ように感じられました。遺された数々の語録は、長い間注目を浴びてきた有名女優ということもあり、多くの人々の共感、共鳴を起こしたのも事実です。そこには、"樹木希林さんは自分とは違う特別な存在の人だった"、という見方や考えもあるかもしれません。そして、ほとんどの方は、感銘を受けた言葉という観点から、心の中の記憶またはモノによる記録しとて残るぐらいだと思います。

『人のために己を役立てる』視点を変えると、さらに新たな発見ができる!

前回のブログで、マータ・アムリターナンダマイ(アンマ)が言われた、"真の下僕"、そして、黎明の著者、故葦原瑞穂氏が書かれた、"僕(しもべ)"これらは同じ意味のことを表現しているのは言うまでもありません。ふたりが残したメッセージを顧みて、私なりに、ある言葉が思い浮かびました。ただし、そのベースとなっているのは、やはり、『人のために己を役立てる』これです。そして、その言葉とは、ズバリ『しんがり』です。『しんがり』は、テレビの時代劇、よく戦国時代のシーンで出てくるセリフ、「しんがりを務める」というのがあります。自軍の戦局が劣勢になるなど、やむを得ず後退する時、最後部で敵軍から自軍を守り、戦況によっては"盾"となり、その後の勝敗を左右する重要な戦闘部隊で、武芸・人格に優れた武将がリーダーとして務める"役割"のことを言います。古くさい言葉と感じられる方、あるいは全然ご存じでない方、いろいろだと思いますが、個人的には意味深いものを感じます。常に自分や部下が生命の危険にさらされ、場合によっては"生死をさまよう"という、究極の状況もあり得るわけです。ちょっと脇道に外れて恐縮ですが、"生死をさまよう"で思い出したことがあります。それは、10年程前にガンで亡くなった父の入院先で、担当医から言われた最後の選択、"延命治療"についてです。私の妹と同席で、担当医の説明を聞きました。担当医から、「あとは〇〇と△△という治療法がありますが、 今の状況からして回復する見込みはほとんどありません。」と話があった時、「その治療をするのか、しないのかの決断」を迫られたことがありました。確かその時、父は昏睡状態に入る一歩手前の寝たきりで、わずかに意識があった状態だったように記憶しています。時間的に猶予はなく、私達は、「それらの治療法をしない」という選択をしました。その後、父がそのことを知った時の"絶望感の漂った表情"今でも私の脳裏に焼きついて忘れられません。私は、何度となく後悔の念が湧きかけましたが、その度に振り切っていました。この経験を通してわかったのは、"人の生死に関わる重い度判断を下したことに対して、振り向かない"、という『強い覚悟』が必要と学んだことでした。私だけではないと思いますが、何らかのキッカケで振り向いてしまうと、人間ですから、情が出てしまい、次に決まって後悔の念が出てきてしまいます。

『本当の幸せ』への道程、目覚めそして揺るぎない覚悟

私は、カウンセラーを始める前、最初に大きな衝撃を受けて、その後時間をかけながら、心に刻み込んだ、次の言葉があります。(このホームページの上部にあるページのタグをクリックされると、「私のとても好きな言葉」の中にも掲載してます。)この世界に必要なのは、指導者ではなく、使える人です。誰もが指導者になりたいと思っています。真の指導者でない指導者がたくさんいます。ですから、指導者ではなく、真の下僕になろうではありませんか。それが、真の指導者になる唯一の道なのです。      「マータ・アムリターナンダマイの54の言葉」NO.48地球人類の霊的指導に携わるという任務は、あらゆる人々の僕(しもべ)となり、人類に仕えるという意味ですから、他の人達よりも自分が勝(すぐ)れていると思うような迷いは、自我そのものの性質から生じる自己顕示欲であり、人を導くどころか、最も未熟な意識状態を露呈するものだということを、肝に命じておいて頂きたいと思います。                  (黎明 新版 葦原瑞穂著 下巻 P34)これらの言葉が指し示している"本質"が、私のカウンセラーとしてのマインドとなっております。確かに初めて、この言葉を目にした時、"ショックでした"特に、強制的に自分を追い込んだわけでもなく、インドの聖者や有名な著者だから、という理由で、これを信じ切って依存したわけでもなく、いつからかわかりませんが、自然と私の心の中へ染み込んでいったようです。このことは、カウンセラーに限らず、ヒーラー、セラピスト、コーチ、占い、鑑定士、チャネラー、リーディングなど人の心や意識といった、見えない、形のない世界、つまり、霊的真理を本質的に理解し、生業にされている方なら、よくご存知のことで聞くに及ばないことかと思います。

この世に生まれてきた目的、そして使命とは

ネガティブからポジティブへの転換は、自分だけでなく人へも適用できる

前回書きました、「長年にわたる兄弟間の確執と正面から向き合う不退転の覚悟」と少し格好つけたタイトルでした。兄弟間の資産に関する問題と書きましたが、要は遺産相続で私が譲り受けた不動産を、下の弟と妹のいずれかに贈与するということでした。その不動産もある理由から、仕方なく相続したのですが、案の定、私もそれを使う目的もなかったため、この10年間放置したままの状態でした。私も年齢的なことを考え、そろそろ手放そうと思い、弟と妹にそれぞれ話を持ちかけました。弟と妹が直接お互いに話をすれば良かったのですが、ふたりの仲が悪く、まともに話さえもできないまま、時間だけがムダに経過しました。内状を言えば、弟は慢性の睡眠不足と心身の疲労から、記憶と判断能力の低下が顕著となり、私とのコミュニケーションも不十分な状況です。また、妹の方は被害妄想をはじめ精神的に不安定な状況が継続しており、私への不信感からコミュニケーションを自ら断った経緯があります。カウンセラーなんて名乗っていても、私としても、手の施しようのない状態なのです。そして、原因を探ってみても、私の話の持って行き方が悪かったのか、弟と妹の話の受取り方、認識、価値観の違いなのか、今だにわからない状況で、解決の糸口さえみつからないのです。

自分を責めている時、マジで気づいていますか?

今回の記事は、自分を責めることをやめたい方へヒントとなると思います。お心当たりがあり、そうだと思われる方、感じられる方は、私の経験を通しての事柄ですが、共通点が見つかる可能性がありますので、是非、お読みになることをオススメ致します。ネガティブ思考の代表格とも言える、「自分を責める」(自責)の性質は、私に限らないと思いますが、長い年月の間、自分で抱えていたので、正直なところ、"手強い"、"しつこい"という印象があります。よくよく振り返ってみると、「自分を責める」の行為は、仕事先や家庭など人間関係で、小さなこと、つまならいことがキッカケ、原因となって、そこに至るケースが多いように思います。しかも、それを注意深く観察していくとわかるようになるのですが、心のちょっとしたスキに入り込むような自分で意識していないと見逃してしまうような"嫌らしい巧妙なヤツ"なのです。何年、いや何十年の月日が経っても、私が心の成長をしなかったからか?反省と努力が足りなかったからか?はたまた運が悪かったのか?結論から言えば、気持ちが落ち込んでいる、とわかっていながら、まだ自分で解決できないまま、そこそこの時間や日数の経過後、"なんとなく収まった?"、そんなことを繰り返していました。そう言えば、ひとりになると、"いつも何とも言えない虚しさだけ"が込み上げてきたことを思い出します。しかし、自分を責めようとした時、またはトコトン責めてしまい落ち込んで、どんなに心がグチャグチャになった後でも、実のところ本当は、『大丈夫』なのです。

「それでいい」とは真実を表現している奥深い言葉と改めて気づく

私が少年期に人気のあったアニメ「天才バカボン」でバカボンの父が決まり文句としていた、「これでいいのだ」というフレーズがありました。今回、私が書くのは「それでいい」についてです。「ありのまま」と同義語と捉えてもいいかと思います。「これでいいのだ」と「それでいい」、どちらも似ていて意味が近く感じられます。しかし、よく観ていくと私なりの考えですが、違いがあることに気づきました。前者は、物事に対して断定した表現で、主観的視点に重点を置いており、状況によって、こだわりや執着を引きづる可能性があります。一方後者の場合、物事に対して"客観的視点"に重点を置いており、"全体的な視野"に立ちながら、どんな状況もすべて受け容れる、そんな柔軟でスケールの大きい言葉のように感じます。ただ、この「それでいい」も、やはり、個人によって受取り方が違いますので、中途半端なとか、優柔不断とか、いい加減とかネガティブ、もしくはマイナスの印象で受け留めてしまうこともあるようです。そして、私が言いたいのは、そこまでに至るプロセスが重要だということなのです。プロセスが重要と言っても、もしかしたらピンと来ないかも知れません。私達は往々にして、仕事や時間に追われて、そのプロセスを早く素早く終わらせようとする行動に出がちになります。"結果がすべて"とよく言われるように、世の中の流れは、結果や効率、成果を優先にするという風潮や思考が常にあります。事実、私も会社員時代は、それらに対して、強い抵抗感、違和感を感じておりました。では、それが当たり前という判断の元、プロセスを蔑ろにして、果たしていいのでしょうか?その弊害というか、反動のようなものは、生じないのでしょうか?個人の状況や環境によっても異なりますが、私の考えという前提で答えを出すならば、「NO」になると思います。それは、私が先程、書きました、強い抵抗感、違和感を感じていたという逃避的な理由からではなく、また、「うさぎと亀」の寓話のような例え話のような発想から出てきたものでもありません。プロセスは、原因と結果の間に発生するものです。"プロセスの本来の意義"という観点から、そのような答えを出したのです。