メンタルケア&サポートやさしい光《目の前の「人」「事」「物」すべてに真実が在る》☆心の闇に光を当てるカウンセリング☆田中俊一

はじめまして、私は、現在、兵庫県宝塚市にあるマンションで、
管理員の仕事をしております。田中俊一と申します。

私のブログは、30数年前に大学を卒業して
社会人として就職するところから始まっています。
それまで大した苦労もなく、家族に守られた環境で育ったため、
相応の社会の荒波?に巻き込まれ、揉まれることになりました。

最初、大手食品商社の営業を10年間勤めた後、
"天職"を求め退職し、その後25年間、飲食、メンテンス、
食品関連の業種のアルバイト、正社員を含め10箇所の職場を
資格やスキルも持たないま

記事一覧(182)

「別れてくれ!」と言ったら、妻から返ってきた究極の言葉

今回のタイトル、『「別れてくれ!」と言ったら、妻から返された究極の言葉』「大げさで恥ずかしくなあ」と思いつつ、よく考えてみたら、"ある側面"では的を得ていると思っています。"ある側面"とは、今回初めてカテゴリーに追加した、「神の声」です。スピリチュアル、精神世界といった怪しいとか、毛嫌いされている方がいましたら、「神の声」としたのは、私なりの根拠、確信に基づいた表現です。もし私の話におつき合い頂けるのでしたら、ちょっと立ち止まる感じでいいですから、サラッとお読み下さい。昔からスピリチュアル、精神世界については、世間では偏見や批判されるような風当たりを受けることがよくあります。(実は私の家族がそれに該当します)決して反論するつもりはないのですが、人間の主観からなる唯物主義や物質優先の社会通念が現実社会の中で、いつも中心的な存在、位置づけで、そこにすべてが揃っていると思っている、そう信じている、という限定された世界を見ているに過ぎないように思えるのです。人間が作った社会的価値観、固定概念の枠組みに縛られているという見方、表現もできるかと思います。しかし、私達人間には、外側の世界を感じる五官(五感)を生まれながらにして持っています。その五官(五感)、個人差はあれ、誰でも、感性を養成し研ぎすまされるようになると、必ず、"感じられるモノ、領域"があることに気づきます。それを個人的にどのように扱うかにより、その人の感性の成長の度合いによって、さらに拡張の大きさや質的な違いということが生じ出します。それは決して他人には理解できない、"捉えようのないモノ、領域"でもあります。しかし、本人にとっては、唯一の"本心から信じられるモノ、領域"なのです。"自分の直感に従って行動する"という言い方をしますが、それは、このことを指しているように個人的には思います。

嫌な性格、性質はポジティブへと転換できる!

前回のブログで書きました、「自分を甘やかす」の正しい具体的な方法で、「いいよ、いいよ、こんな事(時)もあるよ」ということを紹介しました。補足しますと、"すべてを無条件に受け入れる、時間的な制約を外してあげる"、という考え方が基本となっています。これと基本は同じで、「だからこそ・・・」というフレーズを今回、紹介します。このフレーズの最大の特徴は、"自分の性格、 性質の視点を変える"それに尽きます。もちろん、"自分で嫌な性格、性質"と思っている、あるいは感じている、それも含んでいます。具体例を上げた方が、わかりやすいと思います。私の性質を例に上げますので、ご参考にされ、できましたら、ご自分に置き換えて、実践してみたら、何か気づくことがあるかもしれません。①私は、よく妻に対して、 うかつなひと言を言ったばかりに、 彼女の反感を買い、 それを"自分を責め攻撃したい" という受け留めてしまう。「だからこそ、同じように自分を責めたい という人の気持ちを理解でき、 もし相談を受けた場合でも、 私の経験を通しての具体的で 適切なアドバイスができる」②私は話の組み方が下手で、 相手に誤解されやすく、 コミュニケーション能力が 低いと思っている。「だからこそ、1つ1つ丁寧に慎重に 言葉を選び、繰り返しながら、 自分にしかできない オリジナルな表現ができる」③私は何の目的もなく、 周囲の建物や人の動きを見る習性があり、 家族から不審だと指摘を受ける。「だからこそ、その行動が マンション管理の仕事に活かされ、 それは住民の方の安全管理に役立っている」少し話題が反れますが、上記の①~③の「だからこそ・・・」の前半の記述を、書き終わってから、気づいたのですが、これらはいずれも、ADHDだったのです。具体的に言えば①が「衝動性」、②が「注意欠陥」、③が「多動性」という形で当てはまり、自分で言うのも変ですが、すべて発達障害のADHDに該当するのです。「やっぱり、そうかあ」と思いつつも、「今さら、そんなことで めげてはいられない」という気持ちの方が上回っているようです。

「自分を甘やかす」正しい方法あります!

今日はバレンタインデーですね。あえて意識はしなかったのですが、タイトルの「自分を甘やかす」とリンクしてしまいました。さて、本題に入ります。「得」と「徳」、音読みが「トク」で同じのため、その意味を考えた時、少々戸惑ったり、混乱したことありませんか?前者の「得」は数字とか量でハッキリとわかるから、いい?ですよね。やはり"利益やお金"というイメージが強いように思います。つまり、具体的もしくは現実的でわかりやすいという側面があると言えます。そして、何よりも「得をする」という言葉からもわかるように、表面的な"嬉しさ、喜び"の感情を伴って使われるケースが多いように思います。後者の「徳」については「徳を積む」「徳のある人」などの言葉が出てきます。"善い行為をする"、という意味で、自分のためとか、人のためとか、さらに地球のためとか・・・他にもさまざまな表現ができるように思います。しかし、"善い行為をする"とは目に見えることとは限りません。当然、捉えどころのないモノですから、それの"本当の価値を識る人"は、まだ少ないように思います。最近、その中でも、私自身が意外だと思った言葉がありましたのでシェアします。それは、「自分をほめること」実は「自分をほめること」って、私にとって最も苦手とする行為の1つです。日々、自分に対しての素直な気持ちからの”ほめ言葉や想い”を自分の内側(心)に向かって言うのは、"心の貯金箱"に毎日少しずつ「徳」という積み重ねにつながります。時間と労力を要することかもしれませんが、本人の心や意識の成長にとって、とても大切な要素となります。お金のかからないことでもあり、苦手を返上しても、"やらない手はない"、と思っています。

自分の「価値観」が正しいと信じている人との向き合い方

今回もそうですが、最近、新しいブログを書こうとしたら、前回の記事がフックとなり、関連づけらけた出来事が思い浮んで、それがネタになってしまう傾向が結構多いことに気づいています。さて今回の記事は、何度もブログに登場している勤務先のマンションで現役員で長をされている、Bさんです。Bさんとは相変わらず、週1~2回程度、仕事上の打合せをしております。今回の出来事も打合せにおける"単にお互いの考え方、認識の違いがあっただけ"、と表面的なことと安易な判断したら、わざわざブログに書く必要はありませんでした。しかし、その事象の本質を観ていったら、表現していることは細かく複雑なように感じられるかと思いますが、私自身が取った対応は至ってシンプルなことでした。ここから本編になります。もともとBさんの言動は、ご自分の考えを中心に進めようとします。それから、私に対して意見を求めた上で、ご自分の考え、つまり、ご自分の「価値観」が正しいという信念のもと、私にプレッシャーをかけてきます。私は仕事の立場上、そして個人的にもBさんの「価値観」に同調できない、"違和感"を感じていました。その結果として当然のことながら、私の発言に"カチン"とくる時があるようで、そうなると話の流れが止まり、「なんで、そんな後ろ向きの話をするんだ」「そんなのはわかっている、もっと前向きな話をしろ」と顔の表情が変わって怒り出し、最終的には"いじけたあげく、ふてくされる"というまるで幼い子供を相手にしているような手のつけられないパターンとなります。当然、そんなことを私に言われても、返事のしようがありません。"何を言ってもムダ"、ということがよくわかり、話が途中でも中断したことが何度かありました。

人それぞれの「価値観」「先入観」「固定観念」の違い が「誤解」を生む、その対処法とは?

見えない世界を言葉で伝える、その限界、葛藤があろうと突き進め!

私のブログは"人、事、物"という事象と本音で真剣に向き合うことがベースです。さまざまな経験を享受し、心の中へインプットしていくことにより、それがこのブログのネタとなり、"書く起爆剤"となっています。私の過去を取り上げたブログにある、混迷期の時の苦い思い出の影響からか、怪しいとか、偏見や逃避の対象として見られがちと思うからか、スピリチュアル、精神世界といった世界で使われている言葉は、どちらかと言うと、"好きではありません。"今でもブログで使う時なども、多少なりとも、"抵抗感、違和感"を感じながら、書いています。それでもなお、私がブログを通して、そのような情報を発信しているのは、「なぜなんだろう?」と時々思い返すことがあります。スピリチュアル、精神世界に関する、本や教え、セミナー、セッションなど、いろんな形で情報や概念を学び、確かにその体験もできます。私がかつて同じ失敗を繰り返してきたのが、最大のポイントは、その体験や学びを実際の家庭や仕事などの日常生活に生かすことができなかった、ということです。そして今の私は、"日常生活に生かすこと"を前提に、かつてのスピリチュアル、精神世界の概念や学び、そして、瞑想、ヨガ、マントラなどの手法を、生活全般の根底として組み入れるように"意識"してきました。この"意識"の発展形、延長として、同じように苦しみ、苦労されている方へ私が経験してきたことが、少しでもお役に立てるなら、そんな想いが募り、拙いながらも情報を発信するようになったように思います。ところが、心や意識という見えない、形のない、感覚の世界を、このようなブログという文章や言葉で伝えたいことを思い通りに表現するのは簡単なことではありません。"言葉による限界"を感じながら、ブログを書き続けているという、"常に葛藤の連続"であることも事実です。そんな葛藤する想いを抱えながら、先日、話題の映画、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ 」を家族で鑑賞しました。私は特にクイーンを好きではなかったではなく、興味もほとんどなかったのですが、個人的に深い感動に浸りきっていました。その深い感動とは、私の魂を揺さぶるような"共感、共鳴、共振"どれも当てはまる、確かに胸(ハート)にしっかり実感として刻み込まれました。しかし、この映画を観るまでに至った前日に急展開した出来事が示していたのは、"それだけではない"ということに、私は心の奥で気づいていました。それはクイーンと比べるつもりはないのですが、私なりに、人に良い影響を与える手段、方法のヒントがあの映画を通して示されていると思えるからなのです。なぜ、そんなことが言えるのか?私達人間がこの地球という物質世界で可能な"表現"とは、それを突き詰めると、『想い』『言葉』『行動』この3つだけです。右へ行くほど、"表現のインパクト"は強くなります。もう読者の方々には、おわかりだと思いますが、私がこのように書き続けているブログは、『想い』の延長である『言葉』なのです。つまり、まだ『行動』には至っていない、"表現"の側面から見ると、"インパクトが弱い状況"と言えるのです。クイーンの映画を観た後、私の"表現"をさらにバージョンアップしていきたい、そんな想いが芽生えたみたいなのです。彼らは「音楽活動」という『行動』を通して、自分達の使命を全うする、"表現"を全世界に発信してます。ところで、「私にとって"表現"といえる『行動』とは一体何なのか?」と自分自身へ問いかけてみました。実は後日、就寝中の夢や日常の会話の中で、そのヒントを少しだけ垣間見るのですが、具体的に捉えるまで至らず、少し悔しい想いをしました。「産みの苦しみ」と例えたら大げさかもしれませんが、おそらくそれに近い、歯がゆさを感じてました。こんな時は焦らず、じっくりと腰を据えて「待つしかない]と思いますし、また、「(上の方から)それを試されている」とも言え、「向き合っていこうかなあ」と考えいた矢先、そんないろいろな想いが交錯し、しばらく時間を置いていたら、光明が見えました。

「過去の囚われ」「条件づけ、理由づけ」それらこそが『執着』だった

昨年末のブログで3回に渡って、妹夫婦のことを中心に兄妹間のもめ事について書きました。その記事の中に、妹夫婦は過去の出来事に囚われ、私は今に照準を合わせていたため、"そのギャップを肌で感じた"、そのようなことを書きました。"そのギャップを肌で感じた"の違った側面を見つけましたのでシェアします。それは"条件づけ、理由づけの提示"でした。今回は妹だけの話ですが、私としては責めたり、揚げ足を取るつもりではなく、主観的な視点から観察し、感情を含め気づいたことを述べたいと思います。私にとって極めて興味深い気づきだったので、読者の皆さんが一読されて、何か参考になりましたら、嬉しく思います。昨年末の兄妹間のもめ事についてリセットしたまでは良かったのですが、次の展開をどうするか?その調整役として、私が模索する形となりました。私と弟夫婦と妹夫婦、それぞれ普段は、メールやSNSでやり取りをするほど、連絡を交わしておりません。(もともとそういう間柄ということをご理解下さい)極端な話ですが、お互いのメルアドを知らなかったり、パソコンもなく、ガラケーだけを所持している者(弟)もいたりして、今後どのような形で連絡を取り合い、情報を共有化していくのかを検討しなければなりませんでした。話し合いをやり直すにあたって、私だけが遠方の居住地のため、まずお互いの連絡方法を見直そうと思い立ち、弟夫婦と妹夫婦にメールや電話を入れました。まあ、本音を言えば、そのやり取りだけで時間と労力をかけ、"大変でした"弟夫婦へメルアドを教えてもらうため、再三頼んだものの連絡がなく、ついに年賀状にも催促をしたような状況で、年明けにやっとメールが来ました。(原始的な手段でしたが、苦労の甲斐あってか嬉しかったです。)妹夫婦のメルアドは以前からわかっていたので、これでお互いに連絡ができると思いました。ところが妹夫婦に今回の主旨を伝えたところ、即座に妹からメールで、「私達ふたりとも自営業なので、メールは顧客専用としたい」との返事が来ました。私は弟夫婦のメールに関する状況を伝えましたが、妹は態度を変えず、逆に弟夫婦に対し変更を求めてきました。  妹夫婦の自営業の顧客状況については、私にもよくわかりません。長年、集客も口コミを主流にしているようですし、インターネットを駆使しているように見えないので、その本心、意図も全く理解できません。そして私の感情が先走ったため、「自分達本位でしか考えていないのか!」と思った時、私は心の中で珍しくも「てめえ、自分のこと何様だと思ってんだ!」「何で俺が間に入って、こんなことせにゃあかんの!」と叫んでました。(“あ~ぁ、カウンセラー失格ですね(笑)”)こんな怒りや憤りが出た時によく実践する"ゆるしのレッスン"のメソッドを駆使するまでもなく、"いつまでもそんなつまらない感情につきあってられない"と思った途端、冷静さを取り戻し、その状況を客観的に観察することができました。

「自分を抑圧していた」に気づいたが、「大丈夫」の想いはクセ者だった

前回の記事、「自分を責めない」については、長年、つきあい続けたモノですので、私の中で、その対応について心構えができたことで、方向性が見えてきた感覚があり、それが少しずつ自信へとつながっていきました。だから、「自分を責めない」について、「自分を責める」という経験から、"心の中でブレては戻す"、を繰り返すことにより、そのホーダーラインが"心の感覚"として捉えることができるようになりました。私の主観的な"心の感覚"なので表現が難しいのですが、あえて言いますと、私の場合、"本来の自分ではない"と漠然としながらも認識しているので、「何かいつもと違って、 ・重たくどよ~んとした感じ、 ・憂うつ感を引きずっているな感じ、 ・妄想に囚われて地に足がついていない感じ、 ・相手の横柄な態度にすぐムキになる」など、起こった出来事に対して、そんな感覚があり、それをひと言で言うなら私にとっての『違和感』という嫌な、居心地の悪い感じになります。それが少しでも感じられるようになると、仮にホーダーラインを超えて、「自分を責める」側にハマったとしても、そこから抜け出せる時間が大幅に短縮されました。そのことで自然と時間の有効利用へと意識が向き、本来、自分がやりたいことへシフト可能となり、集中することができました。ところが、自分の心の中のことは、やっぱり「わからない」というのが真実だと改めて思い知る体験がありました。それは「自分を抑圧していた」つまり、自分の感情を抑えて、"心の出入口にフタをしていた"というものでした。実のところ私は、「自分を抑圧する」なんて"正直なところ全く私には関係ない"と思うほど、「ノーマーク」の存在でした。しかし、前回の記事の「自分を責めない」を書いてから、それが"フック"となって、今回の記事へとつながったのです。

あの不祥事があったからこそ、多くの貴重な学びへとつながった!

前回の不祥事に関する記事で、今回は所属会社の前担当者だったG氏(以降G氏)にスポットを当てたいと思います。新聞記事には、「G氏が起こした不祥事は十数年にわたり、 お客様から預かったお金を着服し、 家のローンの返済や子供の教育費に当てていた」、というようなことが書いてありました。私はこの記事を読みながら、動機の1つの側面として、その通りだと思いました。しかし、前回のブログでも書きましたようにG氏とは3年半以上にわたり、一緒に仕事をともにしてきたので、彼の性格や気質については、"部分的に"わかっていました。"部分的に"と言ったのは、私の個人的な見方の範囲でわかっていることがある、という程度のものです。そのような表現をした背景は、彼が私に対して、"心を開いてくれなかった"ということにあります。人とのコミュニケーションの基本というか前提は、相手の人と"新たな関係"を築きたい、と思った時って、誰でもあるように思います。私の場合、そんな時の心境から、"自分のことを少しでも知って欲しい"、という願望、その時の相手の状況に合わせて、自己紹介や経歴なり、家族の話なり、趣味や好きなことを引き合いに出し、自分のことを自然な形でアピールしたり、本音をちらっと言ったりして、"相手に興味や関心を持って欲しい"という言動にでるパターンが多いです。しかし、強く意識したわけではなかったのですが、G氏にさまざま角度からアプローチをかけました。しかし、"仕事以上"の人間関係を築くことはできせんでした。踏み込むことのできない、"厚い壁のようなモノ"今となっては永遠の謎ですが、そんなものがあったように感じました。とは言え、G氏は業務の責任者というポジションにいて、とても頭の回転がよく、業務の状況に合わせた対応でき、機知に富んだ判断をされる優秀な方でした。そんな彼が、「お客様の多額のお金を使い込んだ」、ましてや、十数年以上にもわたり数百回も繰り返したのが、"信じられなかった"のです。自分や家族のため、確かにそれもあったでしょう。しかし、一方で所属会社に対する"不満"と"やるせなさ"そんなのが心の底にあったように思えるです。