私のブログは、30数年前に大学を卒業して

社会人として就職するところから始まっています。

それまで大した苦労もなく、家族に守られた環境で育ったため、

相応の社会の荒波?に巻き込まれ、揉まれることになりました。


こんな弱かった私でも傷つき、苦しみながらも、

心と意識の学びと実践をライフワークとして

取り組み始めてから、お陰様で少しずつ心と身体が回復し、

自分でも見違える程、元気でエネルギッシュになりました。


日が経つに連れ、その湧き上がるようなエネルギーは、

私と同じように悩んだり、困っている方へ

少しでもお役に立ちたいという矛先へと、

自然な流れで変わっていきました。


それは具体的な形として、

"カウンセラーとヒーラーを合わせたような、

新しいポジションを目指していきたい"

と考えるようになりました。


もし、少しでも不幸と感じられ、ネガティブ思考で、

人間関係、仕事、健康、病気などに

不安、迷い、恐怖、心配事で悩んでいる方なら、

必ずご興味、ご関心のある内容です。


突然ですが、あなたにお尋ね致します。

・今、抱えている問題は、クリアに解決されましたか?

・今から取り組もうとしているところですか?

・憂うつな思いを引きずっている最中ですか?

・もう諦めて何もしたくありませんか?

・何から手をつけたらいいのか、わからない状況ですか?


そのような状況の中で、

・問題の解決方法を見出したい、

・今のあなた自身を変えたい(何とかしたい)、

・現在、自分がやっている事に確信を得たい、

と思っている、あるいは感じている、


そんなあなたのため、今、直面している問題解決の糸口や

迷い、不安、悩みから脱却するヒントやキッカケ

少しだけ勇気を出して、あたた自身の手でつかみませんか。


私の場合、転職を10回して、人間関係、仕事のノルマに

苦しみ、悩んだ末、うつ病とパニック障害になり、

とても辛い思いをしてきました。


その時は、不安や恐怖の渦に巻き込まれて、

二度と世の中には再起できないと絶望して、

深く悩み苦しみました。しかし・・・・・・


「このままで人生終わりたくない!」


そんな最後に踏みとどまれた想いがあったお蔭で、

少しずつゆっくりと自分を信頼しながら、

何とか、はい上がって来れました。


私と同じようにネガティブな思考や状況で

落ち込んでいる方へ少しでもお役に立ちたい

という真剣な想いから、ありったけの勇気をふり絞り、

私の過去から現在に至るブログをコンテンツとして

立ち上げました。


さらに、私が今、できることとして、

カウンセリングやセミナーなど

メンタル・ケア及びサポートのサービスを

ご提供していきます。


ご案内するサービスについて一言つけ加えるなら、

マインド・コントロールとは全く無縁で、

宗教や思想などの勧誘ではなく、

また、神秘体験などによって

大きな気づきが得られるという、

個人セッションやセミナーではありませんので、

ご安心下さい。


あえてサービスのことを言えば、

私のすべての感性、感覚をフル稼働させ、クライアント様の

"悩みや問題の本質的な部分へ完全に焦点を合わせる"という、

世間で言うところの一般的な心理カウンセリングとは、

ベースや視点も異なる手法となっております。


世の中にはカウンセリング・サービスと言っても、

インターネットを中心に玉石混交の状況で、

さまざな情報があふれており、

クライアント様にとって最適なカウンセラーを

選ばれるのも大変なことかと思います。


そんな中、本当にお困りのクライアント様へ

少しでも手を差し延べることができたら、

そんな素直に出てきた想いから、

『やさしい光』と名づけました。


あなた自身を見詰め直すこと、表現を変えれば、

"本当のあなたに気づくこと"で、やるべき事が明確になり、

新たなアイデア、創造力、決断力などを生み出し、

あなた本来の使命、役割へとつながって行けるよう、

サービスのお申し込み頂いた際には、全霊全力で

真心を込めて最大限のサポートをさせて頂きます。


そして、いつの日かポジティブな思考へと転換する事により、

迷いがなくなっていき、困難を乗り越え、確信できる自分へと

歩んでいくチャンスをつかむ、そのお手伝いをご縁のある限り

させて頂きます。


その時こそ、あなたにとって「本当の幸せ」への階段を

一歩ずつ登っていく実感が湧いてくると確信してます。


どうぞ、何でもお気軽に、ご遠慮なくお尋ね下さい。

私ができる限りのご対応をさせて頂きます。

前回のブログより、だいぶ日にちが空いてしまいました。

これも、最近よくあると言えばそうなのですけど、

私は常日頃、目の前に起きたこと、

自分に関わる問題や課題に対して、

全身全霊で向き合うよう"内なる自分"

"自然発動"するように少しずつ変化してきました。


実は私のブログのネタは常にストックしているのですが、

私自身もまだわからない面があり、

どういうわけか、本当に書きたいことが"内なる自分"から

引き出されることが、頻繁になってきました。


今回の記事も、そんな私のホットな心境から、

文章化されたモノなのです。


最近の私は、もうそれに"お任せ、お委ね"するしかない、

突き詰めて言えば、


"本当の自分を信頼するしかない"

それだけなのです。

今回の"お題"は兄弟間の資産に関する、

10年以上に渡って確執のある問題に

直面することとなりました。


ただし、今回の記事については、

私の個人的な視点もくは考えということを、

"大前提"で書きたいと思います。


不思議なもので、兄弟間だけで話をするなら、

私が長兄という立場でリードすることで、

話がそれなりに進んでいくように思うのですが、

時が過ぎ、それぞれが結婚して家庭を持ったら、

状況は一変するのです。


さらに周囲の人達をも

巻き込んでいる状況ですので、

まあ、ひと言で言うなら、

"泥沼化の長期化"

ということなのです。


世間では、よくある話と言えば、

そうなのですが、傍から見るのと、

当事者だけが知り得る感情のギャップは

大いにあると思うのです。


例えて言うならば、

"気持ちが悪く、違和感のある嫌なモノ"を

直接に肌に触れて感じるのと、

服を何枚か着用してその上から感じるのとの

違い、差があるように思います。


そんな一見厳しいと思えるような状況でさえも、

なぜか、私自身は向き合える覚悟はできています。


より大きな視野で観ると、

私にとって乗り越えるための、

心と意識を鍛えてくれるための、

"筋力トレーニング"

と受け容れた方が、

"楽なこと"だと

この歳(57歳)になって

ようやく気づき出しましたからかも知れません。


それは決して、

遅すぎるとか、

能力がないとか、

短絡的過ぎるとか、

優柔不断で決められないとか、

過去を振り返って反省していないとか、


そう今まで他者や身内に言われ、自分に言い聞かせて、

"自分自身を責める、抑えつける"

そんな必要は全くないのです。


それよりむしろ、その出来事から

何を学べるのか、

何に気づけるのか、

何を教えてくれているのか、


そんな視点で観れたら、

そこから"心や意識の成長へ"

つながっていくように思えるようになりました。


まして、その都度、体験や経験を

積み重ねれば、積み重ねるほど、

それは、"自分自身の確信"へと

"変容"していったように、

今の私は実感しています。


"この確信は絶対何者にも代えがたい"

そのように断言できるのです。


ところで、先程の兄弟間の折衝は、

これから大詰めを向かえるように

思いますが、今までの経緯を考えるたら、

私の思うようにことが運ぶようには、

到底思えません。


しかし、それは、


あきらめるとか、

見放すとか、

逃げ出すとか、

触れないようにするとか、


そんな消極的で単純な見方や判断ではなく、

また言葉での上っ面な表現とも違う、


人間に皆、共通して持っている、

"自分の在り方"

そのものだと思うのです。


さらに、

「こんな結果になったら、

 また成果に結びついたらいいな」

という、


"自分に都合のいい成果や結果を

求める、期待するものでもない"、

ということを

"しっかりと自分の心、いや魂に刻みたい"

のです。


そして、仮にその結果が自分にとって

善いとか悪いとかに関わらず、

"起きたことは法則通りに起きたに過ぎず、

すべてが寸分の狂いもなく正しく生じていること、

そのことをただ素直に受け容れること"、


それが最も大事なことだと

思えずにいられないのです。


この一件について、妻と話す機会があり、

妻から、この困難と思える状況に対して、

「他人様相手のカウンセリングと兄弟相手の込み入った

 話し合いとでは状況が全く違うでしょ」

という話をした時、


私はそれを切り返すように、

「それらの状況の本質は全く同じことなんだ」

「自分で蒔いた種は、自分で刈り取りに行く」

という返答をしておりました。


妻の顔は驚きの表情になりましたが、

私はその発言が、瞬時に"私の内側"から出てきた

"真実の言葉"だったことに気づきました。

今回の記事は、自分を責めることをやめたい方へ

ヒントとなると思います。


お心当たりがあり、

そうだと思われる方、感じられる方は、

私の経験を通しての事柄ですが、

共通点が見つかる可能性がありますので、

是非、お読みになることをオススメ致します。


ネガティブ思考の代表格とも言える、

「自分を責める」(自責)の性質は、

私に限らないと思いますが、

長い年月の間、自分で抱えていたので、

正直なところ、"手強い"、"しつこい"

という印象があります。


よくよく振り返ってみると、

「自分を責める」の行為は、

仕事先や家庭など人間関係で、

小さなこと、つまならいことが

キッカケ、原因となって、

そこに至るケースが多いように

思います。


しかも、それを注意深く観察していくと

わかるようになるのですが、

心のちょっとしたスキに入り込むような

自分で意識していないと見逃してしまうような

"嫌らしい巧妙なヤツ"なのです


何年、いや何十年の月日が経っても、

私が心の成長をしなかったからか?

反省と努力が足りなかったからか?

はたまた運が悪かったのか?


結論から言えば、

気持ちが落ち込んでいる、

とわかっていながら、

まだ自分で解決できないまま、

そこそこの時間や日数の経過後、

"なんとなく収まった?"、

そんなことを繰り返していました。


そう言えば、ひとりになると、

"いつも何とも言えない虚しさだけ"

込み上げてきたことを思い出します。


しかし、自分を責めようとした時、

またはトコトン責めてしまい落ち込んで、

どんなに心がグチャグチャになった後でも、

実のところ本当は、『大丈夫』なのです。

対応1番手は、前回のブログに書きました、

「自分の心の状態に気づくこと」

これなのです!


前回、"ゆるしのレッスンの実践"

なんて書きましたが、ご存知の方も

おそらく少ないと思います。


また「奇跡講座(A Course in Miracles)」

という本をもとにした、

とても難解な概念が出発点なので、

本質は同じで、違った角度の手法に

触れていきたいと思います。


まず、その前に、

「自分の心の状態に気づくこと」

根本的な基礎となるその姿勢について書きます。


それはズバリ「あきらめない」「継続する」

この2つです!


この状況を経験のある方なら、

ご存知だと思うのですが、

今まで、やろうとして、

あるいは、できなかったことですので、

そう簡単で楽なことではないことは事実です。


しかし、最初はどんなに時間がかかろうとも、

あきらめず、忍耐強く、

自分を責めていることにできるだけ早く気づく、

それが実は1番の唯一の方法であり、

最終的に乗り越えるための"近道"なのです。


仮に、100回自分を責めたとして、

"1回だけ気づけた"

それでもOKなのです。


その経験がしっかりと潜在意識の中に組み込まれ、

そして積み重ねられますので、

次の100回自分を責めた時は、

"2回気づけた"

というように少しずつ変化していくのです。


確かにかなりの根気強さがいります。


繰り返し続けていくうちに、

そんなこと無理だ、続けらない、

あきらめたい、放棄したいなどの、

想いが出てくる可能性も十分にあると思います。


そんな方のために、

サポートする手法がいくつかあります。


その1つが、「全肯定する」です。

つまり、目の前事象すべてに対して、

その時に出てきた感情や想いを

「受け容れてあげる」「認めてあげる」

ということです。


「自分を責める」の行為の裏返しは、

"自分を信頼していない"

このことにあります。


そのための緩衝材的な手法となります。

具体的には、感情や想いが出てきた時、

ひと息つく感じで"間"を取り、

「いいよ、いいよ、こんな時ってやっぱり

 自分を責めたくなるよね、いいよ、いいよ」

こんな感じで"自分に言い聞かせる"のです。


周囲に人がいなければ、

声に出してもいいですし、出さなくても

どちらでも構いません。


大事なことは、"自分に言い聞かせる"

「受け容れてあげる」「認めてあげる」

という方向へ次第に変化していき、

"自分への信頼の足固め"となっていきます。


2つ目の手法は、

「失敗という想い」を後悔とかネガティブな想いではなく、

それが自分にとって貴重な経験ができた

「教訓」へと転換することです。


"失敗"と思った時、ほとんどの場合、

感情に流されて、どうしてもネガティブな思考に

なりがちです。


しかし、"最初はうまくいかなくても当たり前"

そんな少しゆとりを持った気持ちがあれば、

自信の積み重ねを生み出し、

その転換は可能となっていきます。


最終的には、一見失敗と見えるような、

どんな出来事も、"一度心の中で言い切り覚悟を決める"

そのことによって「教訓」として、

受け取れるようになってきます。


今回、3つ目の手法も特別に公開致します。

それは「瞑想」です。


昔からあるポピュラーな手法ですが、

私が以前書いたブログに、25年以上の昔、

「瞑想」を始めたものの、いつの間にか

自己流に陥ってしまい、一度やめてしまった

苦い経験があります。


私と比較はできませんが、

精神世界の伝説の書「心身の神癒」の著者 である

M・マクドナルド・ペイン氏も、その準備のため

ヒマラヤでの修行について書かれた

「解脱の真理」では、自ら間違った

「瞑想」を修得したことに触れいています。


つまり、時代を経ながら普及してきた「瞑想」は、

"その本質を理解しないと間違った方向へ行く"

可能性があるということを私は言いたいのです。


 その本質とは、

「正しい理解」「正しいやり方」

この2つをしっかり身につけることにあります。

それを継続して実践していかないと、

「瞑想」の本来の目的を成就することは

できないのです。

以上、「自分を責める」の行為に対して、

サポートする手法を思いのまま書きました。

これらの手法に共通してい言えることは、

"決して無理をせず、自分の心がけ次第で実践できる"

ということです。


最後になりますが、実はこれ以外にも、

とてもわかりやすく、日常生活や仕事といった

現場ですぐにできて、お金のかからない、

非常に効果的な手法もあります。


実はこの手法を実践した事例が、

私のメルマガ登録された方に送らせて頂く、

下記にご提示している2種類のオリジナル資料なのです。


うつ病、発達障害、パニック障害といった

心の病、病気や体調不良など、

健康状態がどんな状態であったとしても、


仕事や家事など日常生活に追われて、

どんなに多忙であったとしても、


嫌な人間関係、出来事があって、

長く憂うつな状態が続いていたとしても、


いつか必ず、

『大丈夫になれる』

"普遍的な手法"です。


人生のどん底にいた、この私が

ここまではい上がってこれた、

手法といっても過言ではありません。


この記事を読まれて、

ご興味、ご関心のある方は、

この機会に、このサイト内にある

メルマガ登録されることをおススメ致します。


ご登録されましたら、先程の2種類の資料を

送らせて頂き、その後、その手法について、

メルマガで詳しくご説明させて頂きます。


また、心の問題は、いくつかの手法を持っていた方が、

いろいろな人生の局面でよりスムーズに、

そして柔軟に対応できることで、

心身ともに楽な状況に変わっていきます。


そのようなことも随時、メルマガでご紹介、

ご説明していきます。


もちろん、無償にて情報をご提供させて頂きます。

よく世間では、"ただ程こわいモノはない"(笑)

と言われますが、その点はどうかご安心下さい。


ちなみに今の時点で、私の有料サービスは、

スカイプ形式(60分・1回 3,000円)と

対面形式(60分・1回 4,000円)の

2種類のカウンセリングだけです。


まだ、駆け出しの新人カウンセラーなので、

先着10名様に限り、無料モニターまだ募集中の状況です。


現状をひと言で言うなら、カウンセラーとして

どのようなクライアント様でもご対応できる、

ベース&ノウハウは持っているという

自覚はあるのですが、

恥ずかしながら、まだクライアント様から

サービス料を頂けるような実績がありません。


有料サービスに至のは、まだ時間がかかると

正直なところ思っております。

いつもは当たり前のように流れていたことが、

ある日前触れもなく突然おかしくなり、

それがキッカケで嫌な想いになる、

そんな経験ありませんか?


私ひとりが叫び訴えたとしても、

どうにもならない現実の真っただ中で、

それが修正できない、とわかっている。

そして追い打ちをかけるように

心の中はモヤモヤしている。


しかし、そんな時だからこそ、

逆にチャンス、キッカケだと感じて、

自分の間違った考え方、捉え方を訂正する

"ゆるしのレッスン"を実践しました。

今回これから書く体験した出来事は、

取りあえず途中経過の報告となります。


久々に今回はキツイとと感じられる体験でした。

あくまで限定された個人的な事象なので、

周囲から見ると他人事にしか感じられない事象でした。


それは何かと言いますと、

"有給休暇が安心して取れなくなった"

という不安定な状況が起きたのです。


このことを取り上げても、あまりピンと来ない方も

いるかもしれません。


パートとは言え、契約上、

私が勤務している年間日数は約300日、

つまり、ほぼ週休1日の状況なのです。

夏休みや正月休みはありますが、

それを合わせても年間8日間です。


というわけで、私にとって

有給休暇を取ることは、

言わば"大切な息抜き"なのです。


それが所属会社の諸事情から、

"有給休暇が安心して取れなくなった"という

「嫌だな、勘弁してくれよ」、

と感じられる状況が立て続けに、

なんと、最近3回連続で"勃発"しました。

"ネガティブ感情のドツボ"にハマリかけました。


ヒューマンエラー?ミス?

そんな言葉なんてどうでもよく、

とにかく今までにはなかった、

"おかしなことが重なり"ました。

関係者の方からの"詫び言"も

一切ありませんでした(怒)


しかし、即座に意識を切り換え

先程の"ゆるしのレッスン"を関係者の方のことを

想いながら、実践して自分の心を訂正することで、

平静さを取り戻すことができ、本来の自分の状態へ

リセットできました。


ここで最も大事なことは、この手法云々ではなく、

"おかしなことが重なった"

という状況に巻き込まれないこと、

たとえ巻き込まれ、心が乱れまくったとしても、

できるだけ早く、

"気づくこと"

それなのです!


私自身のことは、それで収まったのですが、

現実においては所属会社を含め周囲の状況に

何の変化もありません。


組織全体として、もっと根深いモノを

感じずにはおれませんでした。


"会社の誰もが知っていて、わかっていても、

どうにもできない"

そんな得体の知れない、どんよりとした

組織自体の想念を感じました。


これは決して所属会社やそれに関連する組織を

批判しているわけではなく、

むしろ、そこに関わっている皆さんに対して、

「お気の毒なことだなあ」という想いなのです。


これって30数年前の、あの時の状況に似ていると

記憶が頭をよぎりました。

あの時とは、このブログで初めに登場した

私が社会人として勤めだしたB社の営業時代に

関連部署の人達によるミスで苦しんでいた時と

状況が類似していたからです。


今から思うと、あの時は自分でも苦しみ、悩みましたが、

外側の周囲の人達のせいとすることで、

さらに拍車がかかり、自分で自分を追い詰めて

ついには、その会社も退職するハメになりました。


そして、そんな辛い経験があったお蔭で、

さまざな人とのご縁を頂き、紆余曲折を経ながら、

今の私にたどり着いたと思います。


幸いにも、あの時とは違って、今の私は

現実の状況と向き合うことによって、

それをクリアしたり、乗り越えたりする術を

識ることができました。


あの過去の辛い経験さえも実感として、

とてもありがたく受け容れることができ、

また嬉しく感じられるのです。


さらに、より奥にあると思われる本質的な課題を

観られるようになりました。

今のところ、感じらるだけで、

具体的なことは何もわかりません。


ただ、ひとつ言えることは、

「作用・反作用」または「カルマの法則」により、

良きにつけ悪しきにつけ

関連するすべての組織の想念によって、

いずれ何らか現象化が出現する可能性はあるように

感じます。


こんな見えない状況を識りつつも、仕事や人間関係は、

"私自身の心掛け次第で平穏で調和の中で"

良好で何事もなかったのように日々続けていけるのです。


今回の体験を通し結論として私が言えるのは、

スピリチュアルや精神世界の知識や概念は、

それを頭の中に留めるのではなく、

このように日常の社会生活または家庭生活の中で

"自分自身の心の在り方"として

"実践し活かすこと"

それが最も大切なことだと再度実感できました。

私が少年期に人気のあったアニメ「天才バカボン」で

バカボンの父が決まり文句としていた、

「これでいいのだ」

というフレーズがありました。


今回、私が書くのは
「それでいい」
についてです。

「ありのまま」

と同義語と捉えても

いいかと思います。


「これでいいのだ」「それでいい」

どちらも似ていて意味が近く感じられます。

しかし、よく観ていくと私なりの考えですが、

違いがあることに気づきました。


前者は、物事に対して断定した表現で、

主観的視点に重点を置いており、状況によって、

こだわりや執着を引きづる可能性があります。


一方後者の場合、物事に対して

"客観的視点"に重点を置いており、

"全体的な視野"に立ちながら、

どんな状況もすべて受け容れる

そんな柔軟でスケールの大きい

言葉のように感じます。


ただ、この「それでいい」も、

やはり、個人によって受取り方が違いますので、

中途半端なとか、優柔不断とか、いい加減とか

ネガティブ、もしくはマイナスの印象で

受け留めてしまうこともあるようです。


そして、私が言いたいのは、

そこまでに至るプロセスが

重要だということなのです。


プロセスが重要と言っても、もしかしたら

ピンと来ないかも知れません。


私達は往々にして、仕事や時間に追われて、

そのプロセスを早く素早く終わらせようとする

行動に出がちになります。


"結果がすべて"

とよく言われるように、世の中の流れは、

結果や効率、成果を優先にするという

風潮や思考が常にあります。


事実、私も会社員時代は、

それらに対して、強い抵抗感、

違和感を感じておりました。


では、それが当たり前という判断の元、

プロセスを蔑ろにして、

果たしていいのでしょうか?


その弊害というか、反動のようなものは、

生じないのでしょうか?


個人の状況や環境によっても異なりますが、

私の考えという前提で答えを出すならば、

「NO」になると思います。


それは、私が先程、書きました、

強い抵抗感、違和感を感じていたという

逃避的な理由からではなく、

また、「うさぎと亀」の寓話のような

例え話のような発想から出てきたものでも

ありません。


プロセスは、原因と結果の間に発生するものです。

"プロセスの本来の意義"という観点から、

そのような答えを出したのです。

"プロセスの本来の意義"とは、

一体それは何なのでしょうか?


"その場面、その時しか、体験、経験できないことを

味わうこと"に尽きます。

当然のことながら、必要とされる時間がかかることも

ありますし、非効率と映るシーンもあります。


端的に言えば、プロセスを通して、

自ら体験、経験することが重要なのです。


一般的な考え方では、

人生や日常生活、仕事において、

いろいろな体験、経験を積んだほうが、

人間性が豊かになり、それを活かして

さまざまな状況に、より適格に対応、対処が

可能となるという側面があるように思います。


しかし、その方にとって、特に悩み苦しんだり、

辛かったり、と思われる体験、経験を

より本質に踏み込んで観た時、

一般的な考え方と違った側面が

あるように思います。


辛く、苦しいと思われる体験、経験と向き合うことで、

それが解決、またはクリアになることで、

"そこから何を学び、気づき、意味していたのかが、

本心からわかり、さらに受け容れる(腑に落とす)"

ということにあるように思うのです。


人生においてそうした、1つ1つの学びや気づきの

積み重ねが、本人の心や意識の成長、向上、更には

その人の今生における役割、目的、使命といった

"大いなる流れ"へと、

つながっているように思うのです。


そして、その"大いなる流れ"を信頼し、委ねたなら、

ありのまま、すべての事柄を肯定できる、

「それでいい」という"悟り"に近い領域に入るのでは

ないでしょうか。


そういう意味からすると、

この「それでいい」は、非常に奥の深い意味が感じられ、

真実を表現している言葉とも言えます。


私などは、まだその領域には、

とても及びはしませんが、

日々少しずつ努力を重ねて近づいていきたいと

思っています。

私達人間は、日常生活や仕事といった普段の行動においては、

身体の五官(感)を通しての情報を基準にして、物事の判断を

していきます。


まだまだ狭いとは認識しておりますが、

私の価値基準の範囲の限りにおいては、

カバーできていない所は多分にあるように

思われます。


例えば、前回は我が家のペット(犬)のことを取り上げました。

ご存じの方もいると思いますが、犬の嗅覚、聴覚は、

人間の領域をはるかに超えています。


人間の耳では聞くことのできない、"犬笛"を聞き分け、

何もいないはずの家屋の天井の何かに向かって吠え続ける、

"鋭敏な感覚"など、人間にはわからないことを

感知できることがシーンが多々あります。


裏を返した言い方をすれば、人間には感知できない、

情報を犬は知ることができる、ということなのです。


しかし、悲しいことに、ほとんどの人間には、

その情報を受取ることも、理解することもできないのです。

まあ、当たり前と言われれば、その通りなのですが・・・

犬を10年近く飼っていたら、それとなく感覚の範囲ですが、

少しはわかるようになりました。


犬は本能で行動しているわけですから、

人間に理解してもらえるという前提で

行動しているわけではありません。


あとは、その行動を見ている人間が、

どのように受け容れるか、そうでないか、

で分かれていくように思います。


「犬はあくまでも動物の一種であって、

人間とは外見も中身も違うのだから、

比較して見たところで、何の意味もない、

ムダなことだ」

と捉えて思考を止めるのか、


それとも、「犬や動物に限らず、

地球上の有機物、無機物といった

広大で深遠な自然界全体の視野に立って、

感じられ、学べることを受け容れて、

より無限なる可能性を信じて、

人間の新たなるステージに向けて

チャレンジして進む」

ということを選択するのか、


これからの人類は、そのどちらかを選択する

必要性に迫られ、それが近年、日本各地で発生している

災害への向き合い方と関連するように思うのです。


実際、動物達は予知能力により、人間達より
早く地震や災害を察知し、回避行動を取ると
言うのは、よく耳にする話です。


なぜ、そのような犬の行動から、いきなり災害の話へと

大げさに根拠もなく発展するのか、

と思われるかもしれません。


それは、私が今年の夏に体験したことに

つながっていると気がついたからです。

あの東日本大震災以降、

地震や台風や局地的大雨による災害が

現実的に増えたと感じられる、

またはそう思われるという方は、

結構いらっしゃるかと思います。


地球温暖化、自然破壊、環境汚染といった、

言わば人間によって生み出された要因により、

それが年月の経過とともに

複合的、かつ複雑に絡み合って、

このような現象を引き起こしている

と思われる方も多く感じられます。


また、ほとんどの方は、その時点で

「今までとは違う、何かおかしい」

という想いで止まっている、

続いて、

「今は何もできることはない」

と諦めている、

そんな感じを受けます。


さまざな災害という現象を通して、

先程、"私が今年の夏に体験したこと"、

と言ったその真意は、

"もし、その視点を変えてみたら"

という仮説としての考えにあります。


具体的に言うと、私は今年の6~9月にかけて、

大阪北部地震、西日本を襲った長雨や台風などの

影響で、通勤電車が止まり、何度も徒歩で長距離を

通勤するという、かつてない困難な状況が

立て続けに起こり、その都度、対応に苦労しました。


そんな苦しいと感じられる状況の中で、

私なりに気づいたことがありました。

確かに私達人間の視点から見たら、誰がどう見ても

困難で苦しい状況であることに間違いありません。


しかし、地球全体というグローバルな視点

"もし、その視点を変えてみたら"といったのが

これに当たります。


これは、視点を一気に180度に転換するような

感覚となります。

今まで自分の持っていた価値観や固定概念といったものを

一端横に外したり、取っ払うような感じとなります。

このプロセスが、先程の犬の行動に対する視点の違いで

後者の方の選択肢で書いたことと、

"本質的には同じだ"

ということに気づいたのです。


そして前回のブログに書いた

「我以外皆我師」

このことは、地球全体についても当てはまります。

科学的な見地からも私達の肉体は、

地球の元素と同じものからできているのです。


ということは、突き詰めた言い方をすれば、

私達人間は、この地球と運命共同体である、

という見方もできるわけです。


私達人間が、存在する意義を識り、

より感性を磨いていったなら、

「地球に生まれてきて良かった!」

という素直な想いが出てくるように思います。


そして、何のためにこの地球にいるのか、

地球にいる以上、いろいろな体験を味わって

欲しいと想っているのではないか?


そんな地球の意識、想いとも読み取れる、

または理解できる、考えがあっても

おかしくはないと思います。


だから、そのようなことを感じられる

精妙とも言える領域にまで

人間の想念が進化するとしたら、

この物質世界で関わる身体の五官(感)から

受け取れる情報をはるかに超越した、


"見えない、聞こえない、形のない世界にこそ、

本当の答えへとつながるヒントが在る"

ように思うのです。


10年前からペット(犬)を飼っていますが、

人間関係や出来事からはなかなか学べない、

とても貴重なことがありますので、シェア致します。


これは動物全般に言えることなのですが、

特にペット(犬)は、人間の身近な存在ですので、

よりわかりやすいとも言えます。


もし、ペットを飼われていない方が、

読まれましたら、想像力をふくらませて

このままおつきあい頂けたら、ありがたいです。


犬は、今のその瞬間の出来事しか覚えていない、

短時間でそれを忘れるということです。

わずか3秒で忘れるということを聞いたことが

あります。


犬の本能と言ってしまえば、それまでですが、

我が家の犬は、当初から、シツケらしいことを

していなかったこともあり、見事に覚えていません。


ただし、こちらから何か言うと、

その声に反応し、緊張するのか、

"あくび"という行動で返ってきます。


これは、我が家の犬に限らず、

犬を飼っている方なら、

おそらく共通の認識を持っている方が

いらっしゃるように思います。


「犬は三日飼えば三年恩を忘れず、

猫は三年の恩を三日で忘れる」

というフレーズもあり、

また学術的研究もありますので、

決めつけることはできない、

という前提で話を進めたいと思います。


こんな話を引き合いに出して、

つまらない話に思われるかもしれません。


ところが、人間の場合ほぼ確実に、

五官(感)を通しての感覚に加え、

何らかの形で思考、感情が常に入るので、

犬と同じようには行動できません。


条件反射として、人によって、ありとあらゆる

反応を示すのが、人間の性とも言えます。


犬は言わば、"今、この瞬間を味わえる天才"なのです。

このことは、個人的な主観かもしれませんが、

"スゴイ!"としか、言いようがありません。


「動物は本能で生きているから、そんなの当たり前だろ」、

と言われてしまえば、そこで話は終わってしまいます。


しかし、犬に限らず、人間以外の生き物は、

心がピュアで人間関係などのしがらみもなく

"過去や未来、悩み、迷いに囚われる"、

ということが元からありません。

だからこそ、羨ましく、人間同士から学べない側面があり、

とても貴重だと思えるのです。


人間は、確かに生物進化の過程において、

この地球の生態系の頂点に立ちました。

でも、それは決して人間だけの力で

頂点に立てたと思えないのです。


生物進化の過程とは、生存競争、自然淘汰といった

ふるいにかけられらがら、

種が生き残った結果のことです。


反対の側面から観れば、

測り知れない程の多くの犠牲という

存在があったからこそ、そのお陰で頂点に立てた

ように思うのです。


そんな視点が持てれば、少しでも謙虚な気持ちになり、

ここまでたどりついたのは、自分の力だけではなく、

多くの存在に支えられて生きている、

そんな実感が湧いたら、何事にも心穏やかになり、

感謝の念が出てくるように思います。


剣豪の宮本武蔵の有名な言葉に

「我以外皆我師」

というのがあります。


この言葉は大変、深い意味があります。

自分以外の他者、つまり人間で、

それをすべての先生という意味で捉え、

謙虚な気持ちを思い出させてくれる

言葉だと思います。


しかし、より本質な視点で掘り下げて観たら、

今回の犬だけでなく、動植物と言った生き物、

さらに有機質に留まらず、それ以外の鉱物といった

無機質ものまで至る、この地球上のあらゆる存在物を

対象にしているとも言えるのです。


そんな所まで、深掘りしなくてもいいのでは、

と言われる方もいらっしゃるかもしれません。


私は特定の宗教や思想に感化されている

考えを書いているわけではありません。

ごく自然な形で、物事を追求し、その本質を探そうと

率直に思っているだけなのです。


最後に個人的に意見ですが、

あの宮本武蔵が真剣に命がけで、

この世に残したメッセージの重み、その意義を考えれば、

それを"真実の視点"として捉えると考えた方が

より賢明かと思います。

先日、久しぶりに家族が揃い、

一緒に車で移動中の車内での会話でした。


娘が仕事場での人間関係について、

愚痴を切り出した時、私は最初何も言わず、

ただ聞いておりました。


それを聞いているうち、私も今の職場で、

類似した人間関係から対応してきたプロセスが、

頭に浮かんできました。


そして、娘に対して、情(じょう)とも言える、

親として「何とかしてあげたい」との想いと

「娘の意志を尊重したい」との想いが、

私の心の中で交錯するのに気づいていました。


「娘の意志を尊重したい」その意味は、

娘自身の内側から答えを出すことに価値を見出すため、

今は、忍耐が必要という想いからでした。

(実はこれは忍耐ではなく、"娘の心をかばいたい"、

と思った私のエゴでした。)


私の体験談の話をしたらいいか、迷った末、

結局、話をしました。

(さらに迷ったこと事態、実はエゴにハマっていたのです。)


ところが、それが返って娘の反発を生み、

「お父さんとは、人も状況も違うし、私も努力してきた」

と言われ、結果として娘を怒らせてしまい、

不機嫌にさせてしまいました。

(この状況で、もう一つ奥にある本質に気づいてませんでした。)


私としては自分の素直な気持ちから、良かれと判断したのですが、

より冷静になって愚痴ということを認識した上で、

聞き役に徹すればよかったと、

後で思い直すしかありませんでした。

(先程の、もう一つ奥にあるの本質に気づいてなかったことで、

結果として、自らエゴに軍配を上げてしまいました。)

この出来事は、親子ならではの出来事とは言え、

私自身の心の動きを観る上で、とても貴重な学びが

得られたように思います。


時には、自分のエゴに屈してもいいのです。

そのことに気づき、すぐ立ち直って、はい上がり、

ズレ(ブレ)た分を正しく修正すれば、

必ず元の位置(本当の自分)に戻れるのです。


今回の出来事は、まるで、将棋か囲碁を打つかのように、

先読みするような、鋭敏で研ぎ澄まされた

勝負師のような"肝を据える感覚"が試されたように感じました。


最も大事なことは、"素直な自分の想い"

これを相手や場の状況に応じて、細心の注意を払い、

どのように表現するか、だと思います。


そして、伝えた時点で、たとえ相手が、

どのような反応を示したとしても、

完全に相手を信頼して、

"受け流す"もよし、

"一切、動じない"もよし、

どちらの選択をしようとOKという

気構えが必要だったようです。


あの剣豪の宮本武蔵とまで、いかなくても

トップ・カウンセラーの領域のようにさえ、

思えました。


しかし、よくよく冷静になってみたら、

わかったことなのですが、

"本質"をしっかりと掴んでいれば、

決して難しいことではありません。


むしろ、自分の心の動きに気づけたら、

"誰にでも、できることだ"、と納得して、

ひと安心しました。


最終的に言えることは、

"撒いた種は、自分で刈り取る"

起こった出来事に対して、

"責任と覚悟があればいい"

ということです。

皆さんは最初にこのタイトルを読まれて、

どうな仕事なのだろう、

と思われませんでしたか?


ごく普通に考えたら、

お医者さん、看護師、保健師、

獣医師、消防士、救命士とか、

医療や緊急を要する関係者が頭に浮かぶと思います。


確かに人間や動物の生命という視点からすれば、

そうなります。


今回、登場する、生命の大切さの本質を識っている

仕事の方というのは、「植木屋さん」です。

そう言えば、私も昔、植木屋さんと同業の

「樹木医」になりたいと思った時期があり、

通信教育を受講したことがありました。


その時は職がなく、失業していた時期だったので、

一時の憧れに近い感じだったので、

結局、長続きはせず、挫折してしまいました。


しかし、不思議なもので、確かに通信教育は、

挫折したのですが、まだ未練があったのか、

それとも何かの役に立つと思ったのか、

あるいは、捨てるには、もったいない、

と踏ん切りがつかなかったのか、

テキストはしばらく保管していました。


そんなことでさえ、後々自宅の小さな庭の

植物に関することで不明な点があれば、

わざわざ保管している家の外にある

物置まで足を運んでいました。


それでは、何で植木屋さんなのか、

私なりの見解となりますが、

よろしく、おつき合い下さい。


私の勤務しているマンションは、

建物の内外に多くの木々があり、

緑豊かな環境がひとつの売り物です。

その緑の環境を維持管理するには、

当然のことながら、人手と費用が

かかります。


先日、いつもメンテして頂いている

植木屋さんの担当者の方と電話で

仕事の打合せをしている時、

とても大事なことを教えて頂き、

目が覚めた思いをしました。


それは、どういうことかと言いますと、

"植物に対する思いやりの心"でした。


相手の方が植木屋さんなので、

当たり前のことがもしれなかったのですが、

私にとっては、なんとも言えない

"温かな気遣い"が十分伝わってきました。


どういうことかと言いますと、

メンテの作業の1つとして、

「剪定」という枝切りの作業があります。


細い枝から、太い枝まで、

あらゆるサイズのものを、

専用のハサミやのこぎり等、刃物を使用した

「剪定」という作業があります。


この時、植物には強烈なストレス、

負荷がかかるそうです。

植木屋さんでも、その時、一瞬でも迷いが

生じる時があるそうです。


「殺さずに生かし、美観をも考慮した最善の剪定」

「生かすも殺すも、自分の判断、手先次第」

という複雑な想いが心の中に湧き上がり、

緊張感が全身に走るそうです。


ついつい木の剪定ぐらいで、

そんなに真剣になることもないのでは?

と思われる方もいるようですが・・・


しかし、私自身も以前に書いたブログで

書きましたように、タケノコや若竹の剪定作業で

悩んだ経験がありましたので、

共感を得るところがありました。

長年、経験を積んできたプロの方の言葉には、

やはり、重みがあり説得力を感じます。

お話を聴きながら、植物に対する底知れぬ

温かく思いやりの心、愛情をヒシヒシと感じ、

納得しないわけにはいかない心境となりました。


やっぱり、植物もこの地球上で私達人間と同様に

大切な生き物なんだ」

そんな想いが心の底から自然と込み上げてきました。


偶然にも"神の仕組んだ計らい"なのでしょうか?

数日後、マンションのある居住者の方、Sさんから、

こんなお話がありました。


「部屋の前にある大きな木を剪定する予定に

なっているけど、(目障りなので)思い切り切って欲しい。」


私はすかさず、

「あの木は老木とは言え、まだ生きております。

 過度に剪定すると枯れることもあります。

 現場で作業している植木屋さんが、その加減を

 熟知しているので、とにかく植木屋さんに

 お任せ下さい。」

と返答しておりました。


Sさんは、私の話を聴き、納得して頂きました。


Sさんに限らず、ご自分の考えや都合を

優先されようとする方は、結構いらっしゃいます。


マンション管理を委託され、

公平な立場にある私からは、

当然のことながら、善と悪の判断はできません。

そして、"大いなる自然の存在"、

つまり、本質的な視点から観ても、

善と悪の区分けなど、もともと存在しません。


これら一連の流れを振り返って、

私なりに学んで思ったことがあります。


真実の視点から観ると、

"生命の大切さは、木(植物)だって人間と同等だ"

ということです。


日本語の語源である、大和言葉には、

「同音同根性」という古来からの解釈があり、

"木(き)=気(き)、つまり、エネルギー"という意味もある、

ということも付け加えたいと思います。


おそらく、そのくらい大切な言葉の意味が

木(き)には込められているように思います。

奥深い意味を知れば知るほど、

エリを正したくなるような、気の引き締まる想いが

致します。


改めて、私がこのような環境の中で、

仕事ができることは喜びとともに、

感謝の気持ちが湧いてきます。


同時に私が、その場に居ること自体が、

今、天から与えられた役割であることが、

実感として噛みしめております。


この度の「植木屋さん」との関わりは、

人間社会での仕事という一般的な考え、

常識を超えた特別な感覚を持てたように

思います。


最後は、胸の辺りが熱くなり、

感謝という気持ちを通り越し、

「ただ、愛しかない」

そんなシンプルながら、深遠な想いだけが

心の中に静か在りました。



私達が生活や生きていく上で、
家庭や仕事先の人間関係、
お金や身の回りで必要とされる物との関わり、
想定内・外の出来事との関係など、
目の前に起こる事象は、課題や問題、
あるいは試練と思われる形で出てきます。

"それらの事象"を目の前にした時、
私達人間には自由意志があるので、

"それに向き合うか、やめるか"、

どちらを選択するかで、

その後の心や意識の成長に大きく影響してきます。

ただ、向き合うのが"善"で、向き合わないのが"悪"、
というような一般常識的な判断基準ではなく、
すべては自分の自由意志で責任を追うというのが

大原則となります。


"それらの向き合う"という選択をした場合、

おそらく、過去の経験したことをもとに、

推測や予想を問題解決の対処をしていく、

というのが、一般的に多いパターンかと思います。


しかし、それでも解決の道が開けない場合、

人の話、本、ネット検索などで

いろいろと調べたらいい、

という方もいらっしゃるかと思います。


そのような情報もすべて鵜呑みにせず、

参考程度に収めて、いろいろな角度から検証され、

最終的に、ご自分で結論を出し、判断されるのが、

ベストかと思われます。


では、"それらの事象と向き合わない"

つまり、逃げたり、避けたり、

排除したりなどの選択をされたら、

どうなるのでしょうか?


すべてがご自分の都合通り事が運ぶ、

そんなことは本当にあるのでしょうか?


私の今までの経験もそうでしたが、

周りの人生経験の豊富な方々でも、

そのような方は、ひとりもおりません。


それでは、とうしたらいいのでしょうか?


拍子抜けするかと思いますが、
"今、目の前、足元に課題や問題と思える事象にこそ、
解決するヒント、キッカケが
常に示され続けている"
のです。
人間関係に悩んでいる、お金に困っている、

そういったネガティブで、嫌なこととは、

掛け離れているので、全く関係ないこと
ではないか?と反発され、文句を言われる方が

結構いらっしゃるかもしれません。


しかし、今一度よ〜く考えてみて下さい。
“掛け離れているので、全く関係ないこと”
とは、実は目の前になく、心の中にある
“悩んでいる、困っている、ネガティブで

嫌なこと”の方ではないでしょうか。


つまり、全く反対のことを言われているわけで、

当然のことながら、つじつまが合わないという

ことになります。


より突っ込んだ言い方をするならば、

悩んで、困って、ネガティブで嫌な想いのまま、

それを課題や問題として捉えているならば、

一時的な解決ができたとしても、

根本的な解決には至らない

ということです。


もし、真剣に根本的な解決を本当の答え(真実)を

見つけ出したいのであれば、そのヒント、

キッカケが示されている、それらの事象と向き合い、

気づいていくのが、遠回りしているようで、

実は最も確実な方法なのです。

人間関係に悩んでいる、お金に困っている、

そういったネガティブで、嫌なこととは、

掛け離れているので、全く関係ないこと
ではないか?と反発され、文句を言われる方が

結構いらっしゃるかもしれません。


しかし、今一度よ〜く考えてみて下さい。
“掛け離れているので、全く関係ないこと”
とは、実は目の前になく、心の中にある
“悩んでいる、困っている、ネガティブで

嫌なこと”の方ではないでしょうか。


つまり、全く反対のことを言われているわけで、

当然のことながら、つじつまが合わないという

ことになります。


より突っ込んだ言い方をするならば、

悩んで、困って、ネガティブで嫌な想いのまま、

それを課題や問題として捉えているならば、

一時的な解決ができたとしても、

根本的な解決には至らない

ということです。


もし、真剣に根本的な解決を本当の答え(真実)を

聖書の中に、

「神(天)は人に乗り越えられない試練は与えない」
というフレーズがあります。


文中の"試練"とありますが、人間の視点からの価値観で
評価や判断するのではなく、

それは、目の前、足元にある課題や問題と思える事象

と言えるのではないでしょうか。

だったら、
「試練は乗り越えられるように神(天)が設定している」
と言い換えた方が、個人的にはスッキリします。

さらに言えば、神とは決して私達とかけ離れた存在ではなく、

私達すべての人間は、"神の子"、すなわち"神の分身"

でもあるのです。


究極の言い方をすれば、

神=本当の自分=自分の内側=今

ということになります。


実は"試練と思える事象は、すべて私達自ら設定していた"
というのが真実なのです。


「ずっとやりたかったことを、やりなさい。新版」

   ジュリア・キャメロン著 サンマーク出版

この本に書かれている、モーニング・ページを始めて

2ヶ月ほど経ちました。


この本は、ある方のメルマガの記事を読んで興味を持ち、

本を購入して読み、実際に始めたのですが、

私の予想を、"いい意味で裏切る結果"となっています。


私が描いていた予想とは、瞑想のような

癒やし系の結果のことでした。

しかし、やり始めから明らか違っていました。


おそらくその結果は、実践するとわかると思いますが、

人それぞれで異なると思います。


言ってみれば、日常生活での経験の積み重ねと、

現実と仮想の違いはあるにせよ、

共通点がある一方で、本質的なポイントを

受け留めた時のインパクトの質の違いを

個人的に感じました。


そのインパクトは、言い方は変ですが、

ある意味で、"やみつき"になります。

やらずにはいられない、

そんな気持ちになります。


スッキリと気持ちよく書ける時もあれば、

ペンが止まりがちで悪戦苦闘する時もあります。

日々変化しているその時の私の心を

表していると思います。


自分の心の変化をしっかり観続けたい、

だから、モーニング・ページを継続したい、

という気持ちになってしまうのです。


私が目標にしていたのは、

著書の中にある「創造性を養う」

ということでした。


"創造性"というと音楽や美術の芸術とか、

手作りの職人のモノづくりとか、

作家、脚本家などのモノ書きとか、

を思い浮かべるかと思います。


恥ずかしながら言いますと、

私のようなド素人のブロガーも、

一応、モノ書きの一端ではあります。


私の目標には、確かにブログのネタを生み出す、

ということも、その1つにありました。


本音を言うと実はそれよりも、

あまりにも漠然とした言い方で、

おかしいと思われ、

笑われるかもしれませんが、

"人間としてあらゆる可能性のある

創造性を引き出す"

という目標もありました。


60代を数年後に控え、何を馬鹿げたこと

考えているのかと言われるかもしれません。

そうかと言って自分はこれしかできない、

それ以外はダメだ、嫌だ、やりたくない、

というように限定するのも、

"どうかなあ?"、

と個人的に思うのです。


見聞きしている情報するとか、安定しているとか、

信用している人が言っているから無難だとか、

そんな自分自身の経験に基づいた考えで

築いた価値観だけで、その範囲内で行動する、

というのも確かに一理あります。


体力的、精神的、経済的に無茶なことを
するのは論外ですが、私が思うに、
もし、"やりたいと思えることが
1つでもあるなら、まずやってみる"、
そんな気軽なスタンスでもいい、
と思うのですが、おかしな考えでしょうか?


少し横道に反れましたが、私が言いたいことは、

「創造性を働かせていく上で年齢は関係ない」

ということなのです。


その気になれば、いつ何時でも生み出すことが

できるように思うのです。

最も大事なのは、本人の意識の在り方では

ないでしょうか?


つまり、今、誰かのために、

少しでも役に立てる、

少しでも良い影響を与える、

そのために、自分が何をやりたいか、

あるいは、やろうと意識しているか、

それだけだと思います。


そのような奉仕や貢献の糸口に留まらず、

創造性は、この地球上で人間だけが持つ能力で、

人生における無限の可能性を秘めているのです。


そして、最も重要なことは、創造性は常に、

"現在、今"の中に在り、過去と未来のいずれにも

存在しないということなのです。


私達が普段見えていない、気づいていないだけで、

日常生活や仕事先で視点を少しだけ変えれば、

創造性を具現化して活かす機会は、

大小に関わらず、いくらでもみつかります。


さらに、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)

といった、効果的サポートも得られるように状況が

どんどん変化していきます。

想像と創造は、同じ読みですが、

意味は異なります。

しかし、密接なつながりを持っている

言葉同士だと言えます。


想像、つまりイマジネーションは、

人間が描く、または持っている

イメージのことを指しています。


そして創造とはクリエーション、

地球上での3次元の視点から表現すると、

「"無"から"有"を"生み出す"」

という結果の形態になります。


いきなり話がスッ飛びますが、

アニメのドラえもんの


♪「こんなこといいな、できたらいいな~」


という歌詞のフレーズにあるように、

ドラえもんのポッケを通して、

際限なく、どんどん実現化して行きます。


それは、あくまでアニメの世界という

仮想の世界という限定さているのは、

読者の皆さんも、わかっていると思います。


しかし、その一方で、

100均チェーンのK社の宣伝の

キャッチコピーにあるように、


「こんなものあったらいい、

 あんなものあったらいい~」


という現実の世界があるのも、

また事実なのです。


前者と後者の違いと言えば、

極論を言えば1つだけ、

自分の目の前に、それが

"物質化または現象化が

しているか、していないか"

その違いだけ、なのです。


その実体は、

仮想と現実は別のものいう視点でも、

仮に、物質化または現象化という

境目がなかったとしたら、

同一のものとも捉えられ、

無限の世界へ通じる入口"

とも言えるのです。


これは般若心経

「色即是空空即是色」

(形あるものはすなわち無であり、

無はすなわち形のあるものである)

と同様のことを示しています。

この3次元という世界においては、

人間が欲しいと想った(イメージした)もの、

つまり、頭の中でつくられた想念をもとに、

手など身体を駆使し工夫を凝らして、

"ものづくり"という試行錯誤のプロセスを

忠実に遂行していきます。


つまり、創造(クリエーション)という

必要となる過程を経て、最終的には、

それがモノ(物質化、現象化)として、

完成をみるのです。


簡単に言えば、自然界に存在するもの以外、

私達人間のすべて身の回りにあるもの、

ほとんどが該当します。


さらに言えば、試行錯誤のプロセスの中には、

当然の事ながら、数多くの失敗や損失と言われる

状況も含み、携わる人間達の苦労など、無駄や

犠牲とも言われる経験や事柄すべてが糧となり、

完成への道へと進んできたのです。


テレビ、パソコン、携帯電話、冷蔵庫、

エアコンなどの電化製品、


机、イス、食器棚、テーブルなどの

家具類、調度品など・・・・・・


マンション、ビル、家などの建築物など


その種類をあげたらキリがありません。


私達人類は、有史以前から、

文明や科学の進歩とともに、

この地球上にある物質、素材で

"ものづくり"を脈々と続けてきたのです。


個人あるいはチームやグループ、

さらには国単位で、多くの人間が、

ありとあらゆる分野で研究や経験値を

積み重ね、実現化してきました。


それは、見えるものだったり、

形があるものだったり、

触れるものだったり、

というものだけではありません。


それらに該当しない電気などの

エネルギーも創り出しました。


さらに視野を拡げると、

メンテナンスやセールスといった、

サービス業を始め、あらゆる仕事、

芸術、文化活動、主婦業も含め、

人間の日常生活そのものが、

日々、創造されているのです。


つまり、すべてが人間の想像をもとにして、

さまざまな状況、環境に応じたものを、

人間自ら、すべて創造してきた、

ということなのです。


「神は自らの姿に似せて人間を創り賜う」

(聖書 創世記 第1章 23節)


その言葉通り、紛れもない真実なのです。


なぜ、このような当たり前と思うことを

私のような未熟者が言うのか、

読者の皆さんは不思議、

もしくは、おかしいと思われませんか?


ひと言で言うなら、

想像と創造の相関関係を認識している

人間が極めて少ないと思えるからなのです。


より突っ込んで言うならば、

"その相関関係を自覚している人間は

ほとんどいない"

とも言えます。


個人的な意見として言わせてもらえるなら、

「非常にもったいない!」

「自覚できたらもっと有効に

 活用できるかもしれない。」

と思うのですが・・・・・・


私達人類は、地球上の全生命で唯一、

想像と創造という能力を

兼ね備えている存在なのです。


さらに、そのことの本質的な意義は、

人類のためだけではなく、

地球上のすべての生命のために、

世界に"平和と調和"をもらたす、

大前提だったように思うのです。


今回のタイトルを書きながら、

私なりに思ったことがあります。


"負けず嫌い"や"対抗意識"などは、

言わば人間が本来持っている

競争本能なわけですから、

あえてスポットを当てる必要がない、

と思っていました。


しかし、親兄弟や自分の子供といった

身内の状況を観ていくと、

とても興味深いことに気づいたのです。


このことは、私の身内で主観という

限定された範囲でのことなので、

必ずしも他の方に当てはまるケースとは

限りませんので、そこの所を、

ご理解頂けたら、ありがたいです。


ざっくり言いますと、

男と女で違いが観られた、

ということなのです。


先に女系から気づいたことは、

身内の中では自ら口に出して言い、

自分を鼓舞してモチベーションを上げていく。

そして、目標実現に向けて必要な準備をして、

行動へと移していく。


そんなボジティブな印象なのです。


ところが一方の私を含む男系は、

女系とは対称的に自ら口にはほとんど出さず、

心の中で想っているに留まり、

結果的にその想いを抑圧する傾向になりやすい。


また、自分の将来の方向性や

目標設定を示すことが、

どらかというと苦手な部類になる。


他人からは、我慢強いとか、心優しいとか、

言われ、外面は良く見られがちとなる。


以上のことから、

"負けず嫌い"や"対抗意識"について、

私の記憶では、人間本来の本能を活かした、

と思ったことは、今までの人生で数回しかありません。


人によっては、入学試験や入社試験・面接など、

人生の岐路という場面で、それを活かすケースが

あるかと思います。


私に至っては、欲がないのか、アホなのか、

そんな肝心な時に活かすことはありませんでした。


しかし、"負けず嫌い"や"対抗意識"が、

なくなることなどありません。

仮に抑えつけられた時があったにせよ、

時々それが表面化することがあります。

毎朝、通勤時に出会う見知らぬ同年代の男性に、

「歩き方が横柄な感じで気に入らない」

と思えば"対抗意識"を燃やし、その人を見た途端、

早歩きで追い越したり、


通勤電車に乗車する時、他者より早く乗り込んで、

自分の居場所を確保しようとムキになったり、


車を運転していて、道路が渋滞で混んでいたら、

誰よりも早く目的地へ向かうために、

ナビゲーションに逆らうように、

裏道を行く選択をしたり、


そんなふうに"一時的な勝利者に浸る"ことが、

よくあります。


もう、書き出したら、くだらない、つまらない、

しょうもないものばかりです。


そう思いながらも、そのことが私にとって

必要だった性格という視点で見直すと、

決して卑下するものではなく、

むしろ、ありがたい性格だと気づきました。


相手となる対象者を集中して意識することで、

しっかり記憶に焼きつけることができ、

日毎の表情や服装など他者がほとんど気づかない、

微妙な変化さえ、気づくようになりました。


別の言い方をすれば、

"観察力がより鋭くなった"、

という表現もできます。


相手とは、もともと他人で

面識がないわけですから、

私の方が勝手に先入観や価値観をもとに、

妄想をふくらませる傾向になりがちです。


しかし、その点を理解した上で注意し、

ポイントを切り換えれば、

想像力の幅を拡げることも可能です。


この想像力、つまりイマジネーション能力が、

私の特徴の1つであることに気づいたのです。

この気づきは、私の幼少時から50年近くの間、

疑問に感じていたため、強烈なインパクトがありました。


この想像力のお陰で、
見えない、形のない、触れない、という

心や意識の世界において、大いに理解の手助けと

なりました。


また、私の発想やアイデアを生み出す源の1つは、

この想像力にあると確信できるようになりました。


さらに、この想像力は創造と密接なつながりがあり、

それについては、次回の記事に書きたい

思っております。